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社長の想い


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代表取締役 池田 泰弘

エンジョイ池田 Yasuhiro Ikeda

・家族思いの納得住宅研究所 所長
・1級建築士
・土地家屋調査士試験合格者
・不動産コンサルティングマスター
・宅地建物取引士
・ハウジングライフ(住生活)プランナー
・一般耐震診断技術認定者
・太陽光発電アドバイザー ・省エネ建築診断士
・NLPトレーナアソシエイト

                     

30余年、建築業界、不動産業界で仕事をしてきて感じることは、無知、もしくは勉強不足のために、
本人も意識しないまま、悪徳業者になってしまっている人が いか に多いかということです。
なぜそうなるかを考えてみたのですが、そんな方たちの心の奥底には・・・・ 「どうせ他人事、自分のことじゃないんだ、単なるビジネス だ」という考え方があるからじゃないでしょうか?
私はクライアントを自分の家族だと思って、誠心誠意お手伝いしたいと思います。。

【座右の銘】 勇気は、感謝と積極的な心で造られる

 

社長著書紹介

2016年に新刊発売!

「家づくり 右も左もわからへん」 エル書房 池田 泰弘著 1300円(税抜)

大阪、東京、神奈川、名古屋、神戸主要書店、Amazonで発売中

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皆さんが「家を建てたい」と思った理由はなんでしょうか?
幸せな人生を送るために「家族との大切な場」を作りたい
だから家を建てようと思いたったのではないですか?

 

その目的を絶対に忘れないで下さい

 

「家づくり」は本当に大変な仕事です。
家づくりの過程で、多くの方は、家族それぞれの思いがいかに違っているか思い知らされます。
普段の生活では、気が付かなかったことが、「家づくり」を通じて、目の前にさらされます。

でもそれが当たり前なんです。
「十人十色」ということわざにもある通り、それぞれの思いが違って当たり前なんです。
「家づくり」の過程では、家族それぞれの立場で、意見がぶつかることがあります。
真剣な家づくりをされる方ほど、その傾向が強いようです。
そんなときに、最初に申しあげた家づくりの目的を思い出してください。
そして、その意見の食い違いを埋めるために、どちらかが折れるという解決方法を
安易に選ぶのではなく、第3の解決案を、家族みんなで話し合ってみてください。

 

家づくりは良い家族づくりの手段である事に気付かれるでしょう

 

 

もう一つ大事なことがあります

 

それは!

多分皆さんは、今現在の収入を基に、借入返済額に無理がないかどうか検討したうえ、
住宅ローンの借入額を決めておられることでしょう。
でもよく考えてみて下さい。今の収入がずっと続くか保証はありません。
これからの競争社会、増える方も減る方もおられるのが現実です。

 

要は、少なくとも
住宅ローンが終わる時までのライフプラン二ング
しっかり検討することが絶対に必要です。

 

不動産屋さんのチラシにでてくるいわゆる築浅の売物件はほとんどの場合、
この検討が不十分だったのでしょう。
家を新築して5年やそこらで、何も理由がないのに誰が売りたいと思うのでしょうか?

 

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Story01 幼少期

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私は3人兄弟の長男として生まれました。下は妹2人です。ちなみにすぐ下の妹は眼科医、一番下の妹は薬剤師と兄弟の仲では一番勉強のできない兄貴です。
私が小さいころ、父親は喫茶店を買い取り、改装し、そのお店を繁盛させてから、その営業権と不動産を売るということを生業としていました。そのため引っ越しの連続(多分15回ぐらいしていたと思います。)でした。

ikeda_1.jpgこのころ、「赤玉ポートワイン」というアルコール飲料がとても流行っていました。大人たちが、おもしろがって、私にそれを飲ませようとしました。
最初は恐る恐る飲んでいたのですが、口にしてみたら、結構甘みがあり、幼い私にとっても、とてもおいしかたので、結構飲んでしましました。

そのうち、部屋がぐるぐる回ってきて、「部屋が回っる」と叫びながら、部屋中を駆け回りました。風呂敷をマントの代わりにして、当時はやっていた「ナショナルキッド」(今の仮面ライダーみたいなヒーロー)になりきって、「エイヤ」と言う掛け声とともに、お膳の上から何度も何度も飛んでいました。

 

Story02 小学生時代

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私の誕生日は3月25日です。いわゆる「早やいき」です。小学校1・2年のとき、勉強は最下位、忘れ物表はクラスのトップでした。うちの母親は学校に行って、担任の先生に「もう一年間、1年生をさせてください」と真剣に頼んだほどです。(断られてしましましたが・・・)なんせ小学校に行くのにランドセルを忘れるぐらいでしたから・・・・。
小学校4年の時に山本先生という方が、担任になって急に成績も伸び始め、小学校5・6年生とクラスの級長をやるまでになりました。私の母親は、当時編み物に凝っていたこともあって、冬になると自分が編んだ毛糸のパンツをはいて行けと言って、私が絶対に嫌だと言っても、認めてくれませんでした。当時は、体育前の着替えは、教室内で男女一緒にしていました。ちょっと想像してほしいのですが、小学校6年生の男の子が、毛糸のパンツをはいていたら。、周りの友達は特に男子はどうするでしょう?そうです。「池田、毛糸のパンツはいとるぞ!」 周りの女の子は聞いていないふりをしていましたが、当時級長だった私は面目丸つぶれ。でも母親には毛糸のパンツをはかないで学校に行くことを決して許してもらえませんでした。それどころか、銭湯に行くのに、「あんた、いっつもお風呂屋さんに行って、体洗っててないやろ」と言われ、(実際、男友達と風呂に行くことが多い私は、母親の指摘通り、全然体を洗っていませんでした。)ある日、業を煮やした母親から、一緒に風呂へ行こうと誘われ、なんと小学校6年生の息子を女風呂へ入れようとしました。必死で「入れへん」と抵抗しましたが、結局女風呂へ入らされました。女風呂に入った瞬間、目に飛び込んできたのは、同じクラスで一緒に級長をしている美人のOさんの裸体でした。次の日、「学校に行ったらどうなるんやろ?」とすごく心配していくと、Oさんはだれにも話していませんでした。

 

Story03 中学生時代

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中学生時代は、自分の口から言うのもなんですけど、真面目の権化でした。といっても、まじめに勉強していたというわけではありません。サッカーに熱中して いました。朝、学校に行くと、まずボールけり、お昼休みも小さなボールで、サッカーの試合。クラブはもちろんサッカー部。練習が終わって、家に帰ると、ご はんを、食べた後2時間は、壁にボールを当ててのシュートの練習。さすがにうまくなりました。友達に、「プロに行った方がええんちゃう」と言われたほどで す。しかし、当時日本にはプロリーグはありませんでした。もし今のような状況であれば絶対プロテストを受けに行っていたと思います。(多分、受からなかっ たと思いますが・・・・)中学生の時って、思い込みの激しい時期ですもんね。

 

 

 

Story04 高校生時代

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 ここで人生の転機が訪れました。高校2年生の2学期、父親から勘当を言い渡されました。父親が一方的に、母親を殴ろうとしたのを見て、二人の間に割って 入って思わず、父親の胸ぐらをつかんだからです。(今から考えると、止めに入らなくても、父親は手を出してなかったかも?)
そこから、下宿をして、苦学生の生活をしました。

 

Story05 大学時代

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京都産業大学に奇跡的に?入学しました。高校3年の時、20人の生徒が職員室に呼び出され・・・「君たちは卒業が危ない生徒だ」と言い渡されました。
そのあと、「今から名前を呼ぶ生徒は残るように」と言われ、私を含め3名の生徒が残りました。そして、先生はこう言いました。「君たち3名は本当に卒業が危ない。成績も最低、何より登校日数に不足がある。これから絶対休まないように」
そういう中で、私は京都産業大学に一発合格したのです。あと他に受験したのは、信州大学のみ。でも本当は、受験に行くと言って、悪友と信州の湯沢スキー場 でスキーを楽しんでいました。信州大学の合格発表の次の日、父親に「お前、本当は信州大学の入学試験受けてないやろ」と見事指摘されました。今から考える と、直接学校に問い合わせたんでしょう。(父の愛だと思います)なぜ、京都産業大学1校だけをを受験したかというと、悪友が市岡高校サッカー部に所属して いて、これまた卒業が危ない連中らと、「京都産業大学はだれでも受かる」らしいので、みんなで行って、大学生活を謳歌しようと示し合わせていたからです。 受験の当日、昼休みに答え合わせをしていると、私の答えだけ、みんなと違っていました。「私だけ入学できない」と思っていましたが、なんと私だけが合格し ていました。高校の担任の先生に合格を報告すると、「え~、ホンマに受かったんか!」と職員室に響き渡る大きな声でびっくりしされたのを、今でも覚えてい ます。結局、大学ではこれまた不登校を重ね、1年留年し、5年で卒業しました。(5年目は1科目でも落とすと留年決定の張りつめた状況でした。)ちなみに 卒業後10年くらい1科目を落とすという悪夢にさいなまれました。

 

Story06 社会人になって その1

大学をなんとか卒業したものの、就職活動は見事に失敗しました。3社受験したのですが、すべてダメ。留年しているわ、父親が事業経営者であるわで、面接時 から雇う気持ちはさらさらなかったようです。ここでまた事件が起こりました。お客様の住宅の下取り価格を巡って、父親とまたまたバトルしたのです。当時、 父親は土壁塗りの本格的な和風住宅をの建売事業を営んでいました。その下取り価格の商談を終え父親の提示した下取り価格を、下取りの場合価格がどうしても 下がりますとお客様に事実を伝え、やっとの思いで、お客様の了解を得て、会社に帰り、父親に報告したところ、「もう200万円価格を下げる交渉をしてこ い」とその場で言われました。若気の至りかと思いますが、私は父にこう言いました。「これ以上価格を下げる交渉は、ぼくにはできません」・・・・首になり ました。(あとで、聞くとそのお客様のお家は、私が当初提示した金額より、高くで、他の人に売れたそうです。)父親が私に対してした行為の中で、このこと だけは間違った行為だと今も思っています。(当時の父親の不安「高く下取りして、売れなかったら困る」も理解はできますが・・・)

 

Story06 社会人になって その2

首になったあと、「朝日新聞でお客様を募集し、主に白浜の別荘地を販売する会社」に営業として就職しました。半年ほどで、社長に見込まれ、企画部に 配属されました。但し10年はこの会社をやめないという条件付きでした。企画部で仕事を始めると、とても大変でした。毎日仕事が終わるのは11時過ぎ。毎 月4回はあるはずの休みは、なんとか月に1回だけ。そのことはそんなにつらいことでは無かったのですが、ある日、とんでもないことがわかりました。その会 社は、別荘地の売却契約をお客様と結んだあと、その土地の所有者に、買い取らせてくれと買収をかけるシステムを取っていました。ほとんど詐欺に近いことを やっていたのです。ちょうどそのころ、母が連絡をしてきました「父が病気で倒れ、入院し家業が滞っている」と。当時まだまだ純情な私は、すぐに、社長にそ のことを伝え、家業を継ぐべく、実家に戻りました。玄関を開けてびっくりしました。病院に入院しているはずの父親が、私を迎え入れたのです。後はウヤム ヤ。そればかりではありません。私が29歳で結婚した理由はこうです。ある日、母が真剣な顔で、私にこう言うのです。「悪性の胃がんになった。手術をしな ければいけない」「せめて死ぬ前にお前の結婚をみて死にたい」すぐに見合いをして、初めてのお見合いで結婚を決めました。手術の結果は良性の筋肉腫が切除 でき、でもそのために胃の半分を切除したということでした。本当に私の母親は狸です。

Story07 社会人になって その3

本当に試練が訪れました。父親が昭和63年12月食道がんを宣告されました。余命3~6か月とのことでした。妹のつてで頼んだ外科医が、手術の途中 で、手術室を抜け出て、こう言いました。「癌が広範囲に広がっています。普通の人の場合、しても無駄なので、もう手術は中断します。でもご紹介の患者さん なので、できるだけ癌を取ってみてくれとおっしゃるなら、手術を続けますが、どうされますか?」癌を取る方を選択したおかげかもしれませんが、結局平成2 年の3月25日に亡くなるまで、1年3か月生きることができました。
父親の入院と同時に私は家業を引き継ぎました。先見性のある父親が私にこう言いました。「お前の好きなようにやっていい。ただし、こんな土地の値段は続 かないから、土地の新規購入はするな」当時、建売住宅をやっていた会社にとって、土地の新規仕入れをやめるということは事業が継続できないことを意味しま す。本当に困りました。土地なしで事業を継続するには、営業力が必要であると考えた私は平成2年3月、センチュリー21の大阪第1期加盟店となりました。 その後10年間、不動産売買も経験しましたが当時の建売住宅の質の悪さに腹が立ち、センチュリー21を脱退し、注文住宅に特化しました。常に質の良い住宅 を安価で提供したいという思いから、阪神淡路大震災の被害状況の中で、唯一2×4工法だけが被害を免れたという事実に接し、それまでの父親が築きあげてき た在来軸組み工法と他に、2×4工法を始めました。

Story08 社会人になって 今

今私がやっていることを一言でいうと、「頑固で丈夫なGハウス。安らぐお家を、納得価格で提供します」です。“Gハウス”って何だろう?と思った方 もいらっしゃるかもしれません。私たちの会社の建築理念の一部をご紹介しますと、「自分自身が住みたい家をつくります。ご家族が仲良く、安心して住め、時 代の変化に順応する快適住宅をつくります。」とあります。Gハウスとは、この信念を貫くための具体的な方法を表現したもので、 「現物・現場・現実」の3つの言葉の頭文字Gが由来です。現物を自分の目で確かめ的確な判断を下すこと。 現場に何度も赴き入念に検討を重ねること。現実 を見据えたご提案を差し上げること。この3つのGを忘れないために、“Gハウス”という名前を社名に組み込みました。
最後にこのページをご覧いただいた方に伝えたいメッセージがあります。
弊社は住宅専門の工務店です。お客様にとって、本当に価値がある家とは何か。それを考え続けるプロ集団です。
その結果、私たちは2×4工法も建てる工務店となりました。この工法では、ローコスト住宅は提供できません。
それでも耐震性や気密性能、防火性能など、お客様の生涯にわたる安全や安心を考えたときトータルコストでは十分に安くていい家を、そしていつまでもご満足いただける家を提供させて頂いていると思っています。
「私はお客様のご家族が安心して、仲良く、そして心のよりどころとなるようなお家を建てるお手伝いをしたいと心から願っています。それが私の人生の全てであり、この世に生れた役割なのです。」
これが代表である私の、そして弊社の信念です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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